悪魔の証明
先日、新たに知った言葉として「囚人のジレンマ」を紹介しました。
もう一つ同時期に知った言葉として「悪魔の証明」があります。
ある事象が存在することの証明は実例を一つ示した時点で終わる。
しかし、ある事象が存在しないことの証明は、存在することの証明に比べて非常に困難である場合が多い。
悪魔の証明とはそのような「存在しないことの難しさ」を示す比喩です。
たとえば、「日本に蛇がいる」ことを証明しなさいと言われたなら、日本で蛇を捕まえれば証明されます。
では「世界に一角獣がいない」ことを完全に証明できるでしょうか。それを完全に証明する術が思いつく人なんていないんじゃないでしょうか。
悪魔の証明とはこのような事例を指します。
悪魔の証明って、コミュニケーションの中で容易に持ち出してよいものではないですよね。
だって、非常に詭弁に陥りやいように思えます(否定できないということを肯定できるということに結び付けてしまいそうだという意味です)。
それが議論の場であれば議論の発展を阻止するようにも思えます。
悪魔の証明を受け入れてしまうとそこから先には進めないわけです。
もしくは、無意味に惰性的に進んでしまう。
わたくしも悪魔の証明に頼っている節があるのではないかという気がしました。
人と話しているとき、半ば屁理屈気味に悪魔の証明を持ち出しているのではないかって。
もしくは、内面において、良くも悪くも日々どこかに悪魔の証明がある気がします。
ないという証明をすることがとても困難であるという事実は、ある種、無限を意味します。
諦める理由がないことであり、それは希望が潰えないこととイコールなのではないか。
同時に、ないという証明をすることがとても困難であるという事実は、ある意味では不可能を意味します。
諦める理由を見つけられないということであり、納得する理由を見つけられないということであり、それは絶望がつきまとうこととイコールなのではないか。
色々と考えさせられた言葉です。
Wikipedia 悪魔の証明
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